呉善花『新・スカートの風―日韓=合わせ鏡の世界』三交社 1993年3月; 角
 川文庫 2000年1月 15-17頁:

たとえば、私が日本の大学生であったころ、こんなことがあった。

ゼミのクラスのメンバーで記念撮影を撮ったときのこと。みんなカメラを前に並んでいると、ひとりの韓国人男子留学生が前列の椅子(いす)に座っている女子学生の前にやって来るや、「いやあ、こんなブスにはねえ、こうしなくちゃ」と言いながら、撮影のために用意した国旗を彼女の鼻先に広げて、彼女の顔を隠す真似(まね)をしたのである。その女子学生は一瞬あっけにとられたようだったが、すぐ彼の手を振り払うと憤然として席を立って小走りに歩き出した。彼はあわてて「いや、冗談、冗談と言いながら彼女を追いかけ、何度もわびて彼女を引き戻し、なんとか席に着かせた。日本人学生は「それは冗談にならないよ、ひどい」と口々に彼を非難する。私も厳しい口調で彼に文句を言ったのだが、その気持ちは日本人とは違って、少々複雑なものであった。

実際、彼の言葉はほんの軽い冗談なのであり、韓国では親しい間柄では当然のようにそうした言葉が飛びかう。しかし日本では、いかに親しい間柄とはいえ、女性に面と向かっ/て「ブスだ」と言えば、冗談にはなりようがない。

この場合、両者が了解しなくてはならないことは、言うまでもなく、彼にはまったく他意がなかったということ、そして彼は、日本人と接する以上はもっと日本的な礼儀をわきまえた接し方をしなくてはならない、ということである。そこで互いに納得がいけば、文化的な差異はともくも相対化すればよい、ということになる。こうした認識に至るためには、同質感をカッコに入れて考えてみる、という効用は大きいと思っている。

しかし私は、問題はそれだけでは終わらないことが多いように思う。事実、この韓国人留学生は、認識はしたものの、後に私に「なんて日本人は水くさいやつらなんだ」と吐き出すように言っていたし、一方の日本人たちは、「彼はなんであんなふうに、人の神経を逆なでするような言い方をするんでしょうね」と私に言っていた。つまり、認識することによって解消する場合もあれば、解消しがたくいやな気分が残ったままとなることもある。これは当面しかたのないことには違いないが、こうしたいき違いがたくさん重なってくると、やはり互いに好感をもてる関係が築きにくくなってしまうことも確かである。

このケースの限りでは、どちらが正しいかという問題ではない。しかし、現在のように国際化が進展するなかでの異文化コミュニケーションとしては、どちらがより未来的かというように問題をたてることはできるように思う。そのように問題をたてるとすれば、私は韓国人の方が日本人よりも、他者との関係において改めていくべきことはずい分多い/ように思う。私の書くものが韓国人により厳しい言い方となるのは、そのへんのことにかかわっている。