藤田亮策「鬱陵島略史(特輯 鬱陵島)」『観光朝鮮』第2巻3号 1940年5月 30-33頁


鬱陵島略史
              藤田亮策

 鬱陵島の最も早い調査者(てうさしや)なる鳥居博士[註:鳥居龍藏(1870-1953)(東京帝国大学教授 考古学・人類学)]は、古事記(こじき)に見ゆる葦原(あしはら)の中つ国の宇佐島とは芋山島即ち鬱陵島であると説かれ[、]黑板博士[註:黑板勝美(1874-1946)(東京帝国大学文学部教授 日本古代史)]亦親しく此島を巡られて浦島子の龍宮とは此島を指すものとも考へられる出雲の浦人は早く韓国(カラクニ)に渡り此島にも往来して居た為めにかゝる伝説(でんせつ)が出来たのではないかと説かれたのは面白い。
 まことに日本海の真直中の暖流(だんりう)の中に夢の像に浮び出た只一つの島鬱陵島は、鬱蒼(うつそう)たる樹林に被はれ、四面懸絶の岩壁をなして深碧の浪の中に立ち、海の幸(さち)山の幸(さち)も豊にして孤舟に棹さして来た人々が、之を以て蓬莱山が神仙の住処と考へたのは無理もない。古来幾多の興味ある伝説々話も伝へられたであらふが、今之を知るに由なく、又屡々無人島となつた為に、其正しい歴史さへも知ることが出来ない。
 只此島が近世に至つて対馬(つしま)と朝鮮、又朝鮮と鳥取藩との間に所属(しよぞく)の争が起り、一つの島に別々の名がつけられて、又英国船は此島を測量して更に別名を附し、一つの島が三つの名をもつに至つたのも、因縁(ゐんえん)は此島の地理的位置にあつて生じた興味深い沿革を自ら物語るものである。
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 鬱陵島の最初に知られたのは新羅(しんら)の時で、之を于山国といひ、智證王十三年の夏、何西良州(江陵)軍主異斯夫[いしふ 朝鮮読み:イサブ]が、人形の獅子を船に載せて島人を欺き、遂に服属せしめたと伝へて居る。島の名を鬱陵・迂陵・于陵・羽陵・蔚陵・于山等と書くのはウリヤン又はウサンの音を写しただけで、朝鮮に於ては其名は古来変つて居ない。
 新羅の頃の于山国は済州島(さいしうとう)と同じく独立の小国で相当の人口を有し物産も豊であり、江原道の悉直方面との往来もあつたらしい。于山国時代の古墳は島山数箇所に見られ、大石を築いて石室(いしむろ)を作り其上を塊石で覆ふて一称の積石塚をなし、副葬品は所謂新羅焼・鉄剣其他であつて慶尚道古新羅のものと全く同一である。石を積んで塚としたのは風雨の劇しいのと石の多い為めかと思はれる。只石室古墳も又所謂新羅焼の副葬品も、全く同じ構造(こうぞう)と形式のものが出雲を初め山陰・山陽の各地に見ることが出来、上代の遺墳(ゐふん)を通じての文化の共通なることは日本海を隔てゝも同様であり、鬱陵島亦同じ範疇内にあることによつて、半島と我国との交通路は此島を橋としたものが一つあつたことを考へしめるのであろう。
 此島に住んで居たのは実はもつと古い石器時代以来のことで、鳥居博士の調査によると数箇所に包含遺跡が発見され、赭色土器などは慶尚北道・江原道等の海岸地方のものに類似(るゐじ)し、山陰地方のものにも類似のものがあるといふ。石器/時代以来、我国と半島の交通の頻繁(ひんぱん)であったことは遺物(ゐぶつ)の示す所によつて疑ふことは出来ないが、或は此島を橋とする一つのルートも石器時代以来のものであるかも知れない。出雲風土記の国引の古事に、新羅の三埼をひきよせて杵築の崎としたといふ伝説は、出雲人の新羅に対する古い時代の交渉を語るものゝ様に思はれる。
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 新羅の半島統一時代にはやはり此島人は新羅に貢物(みつぎもの)を送つて属国の礼を執つて居たらしく、其時代の舎利壺の破片の発見されてゐるのは、新羅の文化の伝へられて居た証拠(しようこ)である。
 高麗の太祖王建の即位十三年に、鬱陵島の使者白吉・土豆の二人が来て貢物を献じたことに(ママ)有名の事実で、新羅以来此島の人々に貢物を送つては陸地の物資(ぶつし)を得て居たのではないかと思ふ。高麗十八代毅宗王十一年(後白河天皇保元二年)に、金柔立なるものに調査させた時の報告に「島の中に大山があり、山頂から東の方海まで一万余歩、西方一万三全余歩[、]南方一万五千余歩、北は海まで八千余歩あつて、村落(そんらく)の跡七箇所あり、石仏・鉄鐘・石塔等があるが、岩石多く人の住むに適しない」といつて居り、極めて正確に調査したことが知られる。石仏石塔鉄鐘等があるとすれば寺院の跡であり、新羅以来仏教が行はれて寺院のあつたことも推定(すゐてい)される。海中の孤島も新羅の文化をうけて栄えて居たのである。
 前記の報告に「村落の基址七所あり」とあるのは、明に其時人烟のなかつた証拠で金柔立は無人の島を見て来たのである。高麗の八代顕宗王の頃から咸鏡道方面の女真人(じよしんじん)が船を以て東海岸を荒し江原道・慶尚道の海岸地方のは連年其掠奪(りやくだつ)を蒙り、男女を虜獲して之を奴婢に売る為めに、之等の地方の人口が減少するといはれた。かの有名な刀伊(とい)の賊なるものも女真人であつて、壱岐(いき)・対馬(つしま)を掠め北九州を侵し、金海沖に帰つて来た所を高麗の水軍に捕まつて捕虜(ほりょ)は悉く大宰府に送還(そうくわん)したのである。是れ顕宗王の十年のことで、其の時高麗人が此女真の賊をトイといつたので、我国では之を刀伊の賊といふ様になつたのでトイとは朝鮮語の北方の意であり、又北夷・北狄の意にも用ゐて居る。高麗史によると顕宗の九年・十年・十三年と引続き女真即ち刀伊の賊鬱陵島を掠奪した記事があり、初は農器(のうき)や食料を給して本土に遁れ来た于山国人を其島に送還して居るが、後には其民を禮州に移住(いじゆう)せしめたことがあり、女真の侵攻(しんこう)/の如何に甚しかつたかゞ知られる。第十代徳宗の元年に「羽陵の城主其子の夫於仍多を遺して土地を来献す」とあるによれば、尚ほ此島に島主も住民も居たことが知られるが、其後も女真の掠奪(りやくだつ)は甚しいものがあり、遂には無人の島となつたものと思はれる。第十七代仁宗王の時、李陽實を送つて島内を調査させて居るのは既に住民が居なくなつたからではあるまいか。
 毅宗(きそう)の時金柔立の探険したことは前に述べたが、高宗の末頃まで全く無人島のまゝで高宗の頃高麗人で元に服属(ふくぞく)して居た李樞等が建言して、元の為めに此島から香木等を伐り山さうとしたことがあり崔忠献は一時蔚珍郡人(うるちんぐんじん)を島に移住せしめたが間もなく之を廃してしまつた。従つて高麗時代の大半は無人島であつたと考へて差支なく、其間山陰(さんいん)漁師が夏期に来て居たのではないかと思ふが文献に残つて居ない。
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 李氏朝鮮の初には流民の此島に逃れ入るものが次第に増加し、太宗の時、三陟の金麟雨を按撫使(あんぶし)として本土に刷還して居り、世宗の二十年にも南薈が七十余人を捕へて本土に移し、島を無人の境としてしまつた。是れ罪人或は税役を遁れんとするものが此島に盤居(ばんきよ)することを恐れた為めで、成宗二年に朴宋元の探険(たんけん)の際も島中に居民無く、只大きな竹と鮑とを採つて来たといふ。
 然るに文禄慶長役(ぶんろくけいちょうえき)即ち壬辰・丁酉役後、対馬と朝鮮との間に所謂礒竹島問題が惹起されて久しく決せず、対馬は此島を日本の礒竹島(いそたけじま)であるとし、朝鮮では于山国以来の朝鮮の鬱陵島であると主張し、互に相譲らなかつた。今此事の知られて居るのは慶長十九年・二十年(光海君六年・七年)の事であるが、実は数年前からの懸案であるらしく、朝鮮で放棄して顧みなかつた朝鮮初期に、山陰の漁民の来往するものが多かつたことを示し、彼等は之を礒竹島と命名し、自領(じれう)と確信して居たのである。
 元和二年(光海君八年)伯耆(はうき)国米子の町年寄達は竹島即ち鬱陵島出漁許可(きよか)を藩主に願出で、元和四年に鳥取藩の公許を得て此島に漁業を営み、元禄四年(粛宗十七年)に至る迄七十四年間も平和に行はれて、其島の鮑名産として年々鳥取藩から幕府に献上されて居た。然るに元禄五年に多数の半島人が此島に出漁するものであつて、茲に再び所属問題がやかましくなり、対馬を通じて屡々交渉が開かれることになつた。
 此詳細(しようさい)に就ては今述べることは出来ないが、対馬はどこまで来此島を礒竹島又は竹島といつて自領と主張し、朝鮮側は鬱陵島は古来自国領であるといつて、遂には竹島に朝鮮漁民の出漁を禁止(きんし)すると共に、鬱陵島には一切入漁を禁ずるといふ不可思議の言質(げんしつ)を与へるに至つた。此問題は主として釜山に於て対馬との間に談判(だんぱん)が行はれて居たが、元禄十年に至つて幕府の事無かれ主義の消極政策によつて、竹島と鬱陵島とが同一の島なることを認め、山陰の漁民の出漁(しゅつりょう)を禁止することによつて問題は解決した。
 然し乍ら元禄十年以後と雖も鬱陵島には、常住者(じようじゆうしや)は禁止されて居り、因幡(いなば)・伯耆の漁民は不相変夏期に来ては漁獲に従事し、秋に去つて無人の境となる有様で此後も度々朝鮮側から監察員が派遣(はけん)されて居て、此事実を黙認(もくにん)して居たやうに思はれる。
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 幕末維新(ばくまついしん)の際にも鬱陵島が問題に上り濱田藩の密貿易事件に次で吉田松陰の発意による鬱陵島開拓者計画の議が起り、桂小五郎・村田蔵六等の熱心な運動があつたが、幕府は容易(よういに)に許可せず、正式に出願に至らずして中止になつた。
 明治の初年にも亦竹島拓殖論が起り、建議書(けんぎしよ)を提出するものも一・二に止まらなかつたが、明治十三年軍艦天城(あまぎ)の測量により、竹島は即ち朝鮮の鬱陵島なることが明となつて是等の議は悉く止んだ。
 斯の如く鬱陵島に関して屡々論議(ろんぎ)が出たのは其名称の一定しないことにも原因がある。朝鮮で此島を鬱陵・蔚陵・羽陵等と呼ぶことは既述の通りで、何れも于山と同名で古来変化(へんくわ)がない。然るに我国では早く之を礒竹島と呼び、山陰の漁民/は単に竹島といつて居たことは記録の上で明で、大きな竹が繁茂(はんも)して居たことから来て居るらしい。幕末頃から此島を松島と呼んで居るが、松栢の繁茂せる為めであらうか、天明七年(西暦一七八七年)仏蘭西(ふらんす)の航海船リヤンクウル号は鬱陵島の東にある小島を紹介した為めに、西洋の地図には之をリヤンクウル島といつて居る。鬱陵島本島は即ち昔の磯竹島であり竹島であり松島であつて、又ダヂユレ島に当る。然るに今日は其東の小島即ちリヤンクウル島を以て竹島と称し、陸地測量部の地図にも竹の無い此小島を竹島とかき、本来の竹島の意義を失はしめた。竹島開拓論の頃には鬱陵島本島とリヤンクウル島とを混同したものもあつたといふ。
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 以上が鬱陵島の略沿革(りやくえんかく)であつて、竹島問題に就きては面白い交渉のいきさつが伝へられて居るが、詳細は之を略することゝする。
 要するに鬱陵島は石器時代以来人の住居して居た島で、上代には一小国をなし[、]新羅・高麗の国の間には主に貢物を送つて附庸(ふよう)の礼を執つては居たが、尚独立の小国の趣(おもむき)を残して居り、女真人の掠奪によつて殆ど無人の境となり、李氏朝鮮にあつては故意(こい)に無人島として放棄した形であった。其間に山陰地方の漁民に占領されて百年に近い間領土と信じて自由出漁をして居た為めに、後の領有問題(れういうもんだい)をひき起こしたのである。
 位置は江原道の竹邊の東方海中に當り輿地勝覧[註:1530年に中宗の命により編纂された朝鮮の地誌・『新増東国輿地勝覧』のこと]は之を三陟県の中に入れてあるが、併合(へいがふ)後慶尚北道の行政区内割の内に加へたのは、浦項迎日からの交通の関係によるものであらふ。
 地図(ちづ)を開いて鬱陵島の位置を求めるものは、何人も此島が日本海の中央にあることに驚き、対馬海峡から浦項に通ふ船の必ず附近を通過(つうくわ)することを知ると共に江原道の海岸と鳥取県の松江との間に此島と隠岐島(をきのしま)とが飛石の様に置かれてあることに気付くであらう。昔から出雲(いづも)の浦人が船を以て渡つて来たことによつても想像出来るが、今日猶此島と山陰とは最も近い航路なのである。
 由来日本海を超える大陸との交通路は五つが考へられて居た。
 一、沿海州と樺太・北海道を通ずるもの。
 二、咸鏡道から季節風を利用して敦賀方面にゆくもの。
 三、慶尚南道の海岸から対馬壱岐を経て北九州に至るもの。
 四、五島列島から浙江(せつこう)に至るもの。
 五、九州の南端から琉球(りゆうきゆう)・台湾を経て福建・広東に至るもの。
 以上の外に、
 六、全羅南道の多島海(たとうかい)から済州を経て肥前松浦に至るもの。
 七、江原道から鬱陵島・隠岐を経て出雲・伯耆に達するもの。
が考へられ、
 特に此最後の通路は鬱陵島の所属問題を惹起(じやつき)する程著しいものであつて対馬壱岐を通ずる線に次で容易にして最も利用されたものと考へられる。或は石器時代にも斥り得るかも知れないが、少なくとも上代にあつては舟楫の通路(つうろ)となつたことは明で、出雲族の古代文化を研究する上にも、鬱陵島を除外しては考へられぬのである。
                        -一五・三・二四-
                         (京城帝国大学教授)