竹中要「済州道の植物」『文化朝鮮』第3巻4号(青風号) 1941.7.1:
 48-52頁(特輯 済州道)より

49-51頁:

四、染井吉野の原産地か、

 昭和七年雑誌『植物分類』第一巻第二号に京都帝大の小泉源一博士は『予本年四月二十日済州島に渡り、済州島営林署長田中勇氏、同森林主事岩田久治氏及び片倉角治氏の応援を得て同島の桜の探究に従事し、四月二十四日、同島漢拏山(かんなさん)の南山腹六百米突の山地に真のソメヰヨシノザクラ及びエイシウザクラノ(ママ)天生せるを発生(ママ)たり。此に於て永年学界の疑問とされソメヰヨシノザクラの原産地も済州島なる事は確定したるも予未だ南鮮の山地に此自然分布あるや否やを詳にせず。されば現今ソメヰヨシノザクラの原産地は済州島なり。』と発表された。染井吉野は勿論、国民学校を初めとしてあらゆる公共建築物のある場所には必ず栽培されてゐる植物である。その上世界各国へ輸出され盛んに栽培せられ愛賞されてゐる桜界の女王である。所が其の身元/が詳らかではないのである。幕末の頃に、江戸染井の花戸より市中に出て次第に拡まつたと云ふことは知られてゐるが、其以上は不明である。科学的脚光を浴びて学界に登場したのは明治三十四年であつて、故松村博士[註:松村任三(東京帝国大学教授)]によるPrunus yedoensis Matsumuraとして発表されたのである。当時は未だ今日程拡まつてはゐなかつたが、併し既に余程世間に珍重せられてゐた。古い樹としては小石川植物園、上野公園、江戸川堤に植ゑられたものだけで他は新しいものであつたにも拘らず既に其の出所が明らかでなかつた。言葉伝へに染井の花戸の老翁が吉野山にて非常に美しい桜があつたので持ち帰り市へ出したと云ふことで、当時ヨシノザクラと呼ばれてゐたのは此の間の関係を示すものである。所が吉野山のヨシノザクラは山桜系に属し、染井吉野(当時ヨシノザクラと云はれてゐた)はむしろ彼岸桜系のものであり、大変異(ちが)ふものである。此の為植物学者を初め世間の人々はその出所について種々の説をなした。或は伊豆の大島であるなどゝ。併し大島にあるのは花の大きくて疎らに附く大島桜であつて似ても似つかぬ品である。その内エイシウザクラと云ふ染井吉野に近い桜が済州島に発見された。之は済州島在住の仏人宣教師ターケー氏に依つて外国へ送付された標品中にあつたものである。其の様な所から染井吉野の原産地は済州島ではないかと云はれる様になり、永い間の人々の疑問と種々の経緯を経て小泉博士の発見となつたのである。筆者も染井吉野が済州島に産することについては非常に興味があつたので、翌昭和八年四月同島に渡つて調査した。その結果理論的には未だ多少の疑問を残すが、先づ済州島西帰浦北方約一里半、海抜約六百米の附近谷間に遺されてゐる染井吉野は天生と認むべきであらうと考へた次第である。
 然らば済州島原産の染井吉野桜が何故江戸の染井花戸にてヨシノザクラとして売出されたのであらうか。三好先生[註:三好學(東京帝国大学教授)]の研究と小泉博士の記録に筆者の見分を加へて推察して見やう。
 三好先生が吉野の森本坊にある樹齢六七十年の自(ママ)瀧桜に学名をつけられたのは古いことである。之は、小泉博士によるとエイシウザクラであると云ふ。エイシウザクラは其の名の示す通り瀛洲(えいしゅう)即ち済州島の特産品である。その桜が何(ど)うして吉野山へ来たか。吉野の蔵王権現は桜を愛される方で、其為桜の献木が多く、吉野の花となつたのである。古くより日本海の佐渡・能登・出雲・隠岐・壱岐・対馬・済州島などは種々の貿易航路であつたことは想像するに難くない。夫等の船に依つて桜が齎(もた)らされたのではないか。又小泉博士によると讃岐船が済州島に出漁した折齎らしたのではないかと。何れにしても船乗りが信仰が厚く神々へ木献(ママ)其他のことをすることは古くよりの習はしである。其処で染井吉野と瀛洲桜とが吉野に齎らされたと考へると真(しん)に都合がよい。即ち染井の花戸の老翁が吉野より持参せし為ヨシノザクラと云ひ売出したと云ふことゝ一致する。そして瀛洲桜の方は辛じて生き残つてゐるが、寿命の短い染井吉野は枯死したのであると考へられる。一体染井吉野は東京で四十年乃至五十年、京城で三十年乃至四十年の寿命と見做してよい位短命である。尚之に附加へて讃岐の金比羅山にも同様済州島特産のサイシウシラベの大木が献木されてゐると云ふ。憶ふに済州島の港についた日本船の人々は椎・樫・黒松等の常緑樹に交つて見たこともない美しい桜花の爛漫と咲乱れてゐるのを見て驚嘆したことであらう。其の後海岸より山麓一帯の樹林は伐採され、牧場となり畑となり、今日は既に海抜約七百米の地帯迄伐採し盡されてゐる。最早昔日の観はなく、山麓一帯に/拡がつてゐた常緑樹と稍々暖地を好む染井吉野は伐り盡され、今日確かに伐り残された谷間に残存してゐるのではあるまいか。今日尚海抜八百米以上の地帯には多数の桜が見出されるが、それは染井吉野に較べて寒さに耐へられる山桜系のものである。