上田常一「京城の桜の来歴(上)(下)」『京城日報』昭和8年4月27-28日
 1933.4.27-28


京城の桜の来歴(上)
 
        京城師範学校教諭 上田常一


京城にある最も主なる桜の種類は通俗に言つてみると吉野桜と山桜の二つであらう。厳密に言へば吉野桜は染井吉野桜と呼ぶのが正しく、大和の吉野山の桜と同一種の意味ではない。又山桜には朝鮮山桜を始めとして二三変つたものがあるのであるが、それ等を一纏めにして山桜として、此等二つの桜の来歴を述べてみることにする[。]その中山桜は元々朝鮮に生えてゐたものであるが、朝鮮の人々は内地の人達と趣を異にし、古来桜には殆んど関心を持つてゐなかつたやうである。桜は我が国花として有名であるが、朝鮮の人達は彼の槿花を賞し、桜花を以つて杏や桜桃に劣るものとして余り顧みなかつたやうである。李王家の御紋章を桜の花と間違へる者があるが李王家の御紋章は李の花である。

次に京城の染井吉野桜俗にいはゆる吉野桜は明に内地から苗木を移植したものであるが、元来その原産地は済州島で、済州島に生えてゐたこの桜は、昔多分此の辺に漁に来てゐた漁師等によつて内地に拡められたであらうと想像され気候の温暖な内地においては非常な勢ひで繁殖して、その子孫が朝鮮に舞ひ戻つたのであるから複雑してゐる。京城の桜の名所に植はつてゐるこの染井吉野桜は、何時頃誰が内地の何所から苗を求めて植ゑたものか、いはゞ京城にあるこの桜の来歴に就いての記録は予の知る範囲では見当らぬ。そこで動物園長下郡山[誠一]氏、奨忠壇公園の植地氏及び桜谷の桜を植られたといふ大和町の谷與市氏を訪ねて、その記憶を話して戴いたのであるが三氏の言を綜合すれば京城の桜の来歴を明にすることが出来る。即ち予が京城の桜の来歴に就いて述べる材料は主にこの三氏より与へられたものである。

染井吉野桜を創めて京城に移植したのは、明治四十年谷與市氏が兒玉秀夫(ママ)[秀雄]伯の命を受けて五百本許り倭城臺に植られた桜である。当時苗木は三年生のものを内地(多分東京の巣鴨とか)から千五百本許り取り寄せ、その中五百本を倭城臺に植ゑ[、]他は所々に配つた由であるが、倭城臺に植たものは幸によく育ち、毎年肥料をドシドシ与へたり手入れのよかつたために幹も段々太くなり、綺麗なお花見が出来るやうになつて、遂に呼んで桜谷とした。桜谷の谷は谷氏の谷も意味してゐるといふことだ。大正三年頃は最も盛りで、花の頃は毎晩ボンボリをつけて花見客を吸ひつけたもので、一時人出の多い時は十万に達したと号してゐる。ところが其の後は樹勢が段々衰へて枯死せるものや、又官舎附近のものは植替へられたりして枯れたものが沢山あつて、今では御覧の通り幹は太いが数はずつと減つてゐる[。]

昌慶苑の桜は(桜谷に倣つてか)明治四十一年から四十二年にかけて染井吉野桜三百本許りを園内に移植したのが始まりである。その苗木は大阪附近から取り寄せたもので、当時苗は接木の二年生のもので、小指位の太さで高さにして四五尺位の大きさであつたものが、此処でも矢張りよく成長して現今では園内道路の両側に二間半の間隔に古木となつて残つてゐるのがそれである。最初植た三百本の中には其後枯れたものもあつて[、]その跡には毎年補植や増植を続けられ現在では大小合はせて千本以上もあらうといふことである[。]



京城の桜の来歴(下)         京城師範学校教諭 上田常一


昌慶苑の桜は桜谷と異つて(申すまでもなく種類は全く同じであるが)枝が長く横に伸びて地面に垂れ下がつて、内地では見られない程花付きがよく、時々枝を伐らないと道が塞がれる程である。東京はこの染井吉野桜の本場であるが、彼の大震災に遭つてその大木は殆ど亡くなつてゐるから、幹の太い点に於い(ママ)ては或は花付きの極めて著しい点に於て昌慶苑の桜は日本のナンバー・ワンである。昌慶苑にはこの外、山桜も数に於て染井吉野桜に劣らぬ程植はつてゐるが、この桜の特徴として花が一時にパンとしないから余り人に気付かれぬやうである。

桜谷や昌慶苑に遅れて大正元年頃には民団で南山から漢陽公園にかけて広島あたりから取つた五、六百本の染井吉野桜の苗を移植したものである。又多分大正二年頃か慶福宮内の共進会の済んだ跡に、谷氏によつて染井吉野桜が植られて、其後立派な桜が見られるやうになつたが、近く博覧会の際会場の邪魔になるので大分伐り倒されたのは遺憾である。奨忠壇の染井吉野桜は大正九年朝鮮神宮御造営の際、漢陽公園のを一部こゝに移植したものであるが、こゝでも枯れた跡には補植や増殖を続け、尚近来郊外牛耳洞の山桜の実生苗を取り寄せて所々に植られてゐる。

京城は如斯近く二十年内外で一躍桜の名所として折紙をつけられてきたが、これから将来は如何なるであらうか考へてみたい。面白いことだと思ふ。昌慶苑や奨忠壇又は桜谷の染井吉野桜の大木の幹を御覧になれば、そこには全く子供が小刀で悪戯をしたと許り思はれる、縦に長き裂け目が深く刻まれてゐるのに気付かれるあらう[。]これは子供の悪戯でもなければ大人がしたのでもない、寒さの為に幹が凍つて縦に破裂したものである。多年この桜を取扱つた実際家の話では、染井吉野桜は秋になつても水を幹の中に幹へてゐるから(その証拠には秋冬の候幹を切ると水が沢山ある)[、]それが零下二十度になると凍つて、水道の鉄管が破裂するが如くバチー・と可なり大きな強い音を立てゝ縦に長く裂けるといふことである。一度斯様に裂けて来ると、次はそこから早晩腐れ込み、樹勢の衰へるにつれて木喰ひ虫が侵入して遂に枯死するに至ると。斯様に染井吉野桜は寒さに弱く、凍裂はこの桜の致命傷になる。京城の染井吉野桜が枯死する原因はこれであるといふから、京城の厳寒が人為で防がれない以上、桜の枯死は免れぬ所である。

故に桜の名所たる資格を永く失はぬためには施肥を充分にし、毎年補植や増殖を怠らぬやうにせねばならぬ。(補植は目通り径三寸以上の大さのものは殆んど着かぬさうである。)公園に遊ぶ者もよく樹木を愛護して。(ママ)枝等を折らぬやうに心懸けねばならぬ。染井吉野桜の枝を折るのは禁物である。又山桜の方は元来朝鮮に生えてゐるためか寒さには抵抗力が強く秋にはスツカリ水を下にさげてしまふから凍つて縦裂することはない[。]又枝を折られてもそれによつて樹が部分的に枯れるといふやうなこともないらしいから、昌慶苑や奨忠壇等で試みられてゐるが如く染井吉野桜の間に挿植するは非常に意味があることである。


※原文の旧字体を新字体に改め、原文にある振り仮名は省略しました。仮名遣いは原文のままです。