石川安次郎「国の表徴としての桜」『桜』桜の会 第5号 1922: 50-52頁:


国の表徴としての桜

石川安次郎


桜の会へは前から入つて居りまして今日も此処にお集まりがあるので参りました。十分程所感を述べようと存じます。先刻御(ママ)話しの後藤市長は私共永くお知合になつて居りますけれども、あの様に哲学的な、或は文学的な、色々な桜の唄などを御承知であることを、私共は永い間新聞記者をして居りながら甚だ迂闊な訳であるが承知しなかつたのであります。私がお話したいことは丁度後藤さんのお話の所謂上根下根の人に依つて見方が違ふから色々の所感を述べた方がよいと思ふのであります。私は備前岡山の産でございまして今市長が兒島高徳の歌をお読みになりましたが、私共が子供の時から聞いて居つたのは都々逸で、彼の真の闇夜に桜を削り、赤い心を墨で書く。斯ういふ都々逸を聞いて居つた。之は誰が作つたかといふことは後に発見されまして、御承知でございませうが白河[註:原文三字欠]先生がお作りになつたので、此歌が非常に日本の勤王の精/神を鼓吹するに力があつたといふことを承りました。それで櫻といふのと勤王の精神などゝいふ事を常に連想して居ります。それで私が海外に出ました時に各所で外国人に桜の如き花があるといふ事を至る処で尋ねた。所が欧羅巴にはさういふものは餘り見受けない。併し印度のヒマラヤ山には大変立派な桜があるといふことで、一昨年印度に参りまして、丁度ダジリンの上の方まで登りました。桜はいつ頃咲くものか存じませぬが桜の木だけでも見度いと思ひましたから、或る人に連れて行つて貰いました。

所が亜米利加人の人が申しますのに、ダジリンへ登るには余程自分の身に罪の無い人でないといかぬ。罪の無い清浄な人がお山の上に上って行くと天気が晴れてヒマラヤ山の雪を戴い(ママ)居る姿は非常な壮観であると。さういふ訳でダジリンに登り初めました。其の中に亜米利加人が申しますのに、今日は晴れて誠に好い天気である。貴方は罪の無い人であらうから大変よく見える。ダジリンへ行つても多分雨は降つて居るまいと言はれたので、私は心の中に随分長い間色々の事をして来て居るが、印度に来ると此の位のものでは罪の無い方に入れるのかと思つて、非常に喜んで、ダジリンの絶頂迄行きますると遺憾乍ら私の罪業が深かつたのでありますか雨が降つて居る。何十年か新聞を書いて色々の人の悪口を書いたり、疵も附けて居るので、此罪業が報ひ来つて印度の山て(ママ)は迚[とて]も雨が霽[は]れぬと、思ひながら桜はどうだらうと聞きますと、どうも此の辺には無いがもう少し高い所にあるさうでありました。大谷光端さんの記録に依ると大谷光瑞氏の如き高徳のお方でも一週間位ダジリンで雨に濡れて居つたといふ訳でありますから、私の様な俗物が雨に降られたといふ事も、敢て怪しむに足らぬ事でありませう。それが為めに桜を見ませんでした。印度の山には日本のやうな桜があるといふ事は事実の様であります。それから先刻此方で見ますると、亜米利加の華盛頓に桜が移し植え(ママ)られて、東京市から送つたのが綺麗に咲いて居る図が出て居りまするが、私も華盛頓に数回参りましたけれども何時も時候が春の時候でないから見ませんでした。

只私が今一寸感じた事は、日本の様な綺麗な桜は印度にもありませうが外では此桜を移し植ゑても美しい花が開かなんではないが餘り綺麗ではない。天津の日本の居留地に桜を移し植ゑた。花を見ましたが、あすこの桜はもう土地が日本の土地と違ふかその花がまるで支那の李の様な形になつて日本の様に美しくは開きま/せぬ。どうしても支那の黄塵漠々たる所に、殊に乾いた気候でございますから余りよくないと見えます。ですからこういふ所には日本の桜は開かぬのではあるまいかと一寸感じたのであります。其後私は青島に参りました。あの独逸の居留地に日本から移し植ゑました所の桜が、非常に美しく咲いて居るのを見たのであります。独逸語ギルツ、ストラツセー桜の街を(ママ)名を附けて居ります。其街には日本の桜と間違へるやうな美しいのが非常に盛に咲いて居る。之は山東省は日本と同じ様な地質であるのか実に不思議であるといふ風に感じて居りました。所が欧洲大戦の結果として、青島の地に日本の人々が沢山に行つて、殆んど是が勢力範囲の様になり、今日支那の政治家、日本の政治家が如何様な談判を為し、如何様な結果になるにもせよ、日本の桜があの通り咲く土地である以上は、之は自然に私が国と特別の関係を持つ運命を有つて居るのではないかと新聞記者の頭として感じて居るのであります、日本の桜が独逸に依つて異国に移し植(ママ)られたに拘らずあの様に美しく咲いて居るといふ事は、興味のあることであります。又世界の何処かに日本の桜の美しく咲く土地があれば、それは我々の発展して行く道を指示して居るのではないかといふやうな考へが浮ぶのであります。此の風流な美しい桜を見てお楽しみに相成る方々の御会合へ政治談などを致しますのは、誠に恐入りましたが、新聞記者といふものは斯う云ふ風流な花を見ても、直ぐにそれを政治に結び附けるものであるといふことだけを御諒解願ひ度いと思ひます。


※石川安次郎 号:半山
※原文の旧字体は新字体に改めました。仮名遣いは「くの字点」以外は原文のままです。