小泉源一「染井吉野桜の天生地分明す」『植物分類・地理』第1巻2号 1932年6月
 20日 177-179頁:

雑録

染井吉野桜の天生地分明す

Prunus yedoensis MATSUM. is a native of Quelpaert!

小泉源一

by G. KOIDZUMI

ソメヰヨシノザクラ(Prunus yedoensis MATSUM.)は幕末の頃に、江戸染井の花戸より市中に出て、次第に江戸にひろまりしものにして、其栽培の年代は極て新しきものなり、江戸の人此桜を呼んでヨシノザクラと云へり。蓋し染井の花戸が先づ呼称せしものなるべし。

ソメヰヨシノザクラとは故松村任三先生の命ぜられし称呼にして、江戸にて単にヨシノザクラと云へば、此桜は大和の吉野には皆無なるにも拘らず、恰も吉野の原産の如く聞こゆるを以て改められたるものなり。松村先生は此桜が東京に出でし頃より、よく御存知にて明治の初年より漸次市中に出るやうになりて、東京帝国大学小石川植物園にも其当時栽植されしもの老木一株ある事も、よく話され、当時の園丁長内山富次郎氏もよく之を話したり。此老木は樹齢五十余年にして大正元年頃なりしか枯死したり。

ソメヰヨシノザクラは大和吉野の原産にはあらざれども栽培桜として、初て世に出し時に江戸の人々が染井の花戸より聞きて之をヨシノザクラと呼びし事は注意を要する事なり。

此桜は、桜類中にては他に比して、最も形態の特種なるものなれども、之が植物学者の完全なる理解を得るに到りしは、漸く明治三十四年にして、松村先生がPrunus
yedoensis MATSUM.と命ぜられしを始となす。

此年以前は此桜の植物学上の位置は充分了解されず、人皆其特性を認むるに到らざりしなり。明治三十四年漸く人の注意せし頃は、此桜が世に出でし既に三十四年以上を経過せしを以て、当時俄に此桜の来歴に就き、染井の花戸を詮議せし頃は、染井の古老も皆死去して之を知るに由なきに到れり。

天下の風説は此桜は伊豆大島の原産となしたる久しかりしが、大正元年三月予大島に至り調査せしに同島には之を天生せざる事を明にし東京植物学雑誌、第二十六/巻第百四十六頁に之を発表せり。

同く大正元年五月五日、独逸のE. KOEHNE氏はFEDDE氏のRepertorium Specierum
Novarum Regni Vegetabilis第十巻五〇七頁にPrunus yedoensis MATSUM. var.
nudiflora KOEHNEなるもの朝鮮、済州島に天生する事を報じ、ソメヰヨシノザクラの天生地の明ならざる今日此変種が済州島に天生する事は学術上重要にして興味ある発見なりと云へり。

今此Prunus yedoensis var. nudiflora KOEHNEはエイシウザクラと呼称す。

此KOHENE氏の発表せるものは、明治四十一年四月十四日済州島居住の仏国牧師
TAQUET氏が同島の山地にて採集せるものなり、其原品の一は現今京都帝国大学植物学教室腊葉庫に保存す。

此時以来ソメヰヨシノザクラは済州島に自生すと誤り伝へられ、三好博士の植物学講義下巻にも其由を記され、然も栽培のソメヰヨシノザクラは果して済州島より来れるや明ならずとあり。先年朝鮮総督府林業技師石戸谷勉氏も済州島の片倉角治氏が同島の山地に採集せるエイシウザクラを見て同くソメヰヨシノザクラの原産地を発見せりと当時の朝鮮新聞紙上に報ぜり。

故に今日までは済州島の山地には、ソメヰヨシノに近似せるエイシウザクラの天生せる事は略知られしも未だ真のソメヰヨシノザクラの天生せる事は発見されざりき。

予本年四月二十日済州島に渡り、済州島営林署長田中勇氏、同森林主事岩田久治氏、及び片倉角治氏の応援を得て同島の桜の探求に従事し四月二十四日同島渼拏山の南山腹六百米突の山地に真のソメヰヨシノザクラ及びエイシウザクラの天生せるを発見したり。此に於て永年学界の疑問とされしソメヰヨシノザクラの原産地も済州島なる事は確定したるも予未だ南鮮の山地に此自然分布あるや否を詳にせず。されば現今ソメヰヨシノザクラの原産地は済州島なり。而此桜の天生地は済州島のみと決定さるれば之に関連して種々の植物地理上の問題も生じ来る訳なり。

エイシウザクラの天生地も目今は済州島のみなり。此桜は予が今回の同島に於ける研究により独立の一種となすべきものなるを知りしを以て其学名は新にPrunus
nudiflora (KOEHN) KOIDZ. nom. nov. (=P. yedoensis var. nudiflora KOEHNE, in
FEDD, Rept. Nov. Sp. Rg. Veg. X. s. 507. 1912.)(=Prunus sacra, f. longipes
MIYOSHI in Tok. Bot. Mag. XXXIV. 1920. p. 169.)と命ず、最後の異名は白瀧桜なり。

白瀧桜(P[.] nudiflora, f. longipes KOIDZ.)とは三好先生が大和の吉野の森本坊にある樹齢六十余年にも達する唯一株のエイシウザクラの一品に命じたる呼称なり。/

先生は之済州島産のエイシウザクラの一品なるを認められず、却て吉野の勝手神社の勝手桜(Prunus sacra MIYOSHI)の一形と見られども其間実に大なる相違あるものなり。

エイシウザクラは日本に於て吉野に唯一株栽植されてあるが其来歴は分明せず、吉野の古老も死し寺院の記録もなし。然し樹齢は六十年以上と見え恰も幕末時代頃の栽植なり。

吉野に丁度幕末頃に植ゑられし唯一株のエイシウザクラあることゝ、染井より出しソメヰヨシノを元来ヨシノザクラと称せし事より、済州島にあるソメヰヨシノ及びエイシウザクラは共に幕末の頃に何人かによりて吉野に献木せしものに非ざるか、而其中ソメヰヨシノは遂に江戸にもたらされしか、又は其苗木元が江戸にもたらされ親木は枯死し独りエイシウザクラのみ吉野に現存するに非ざるか。

吉野の蔵王堂の蔵王権現は桜を愛するものにして此為に此処に桜の献木ありしが吉野の花となれり。憶ふに讃岐船なるものが済州島に出漁せし折に両品を携へ来りて吉野に献木せしに非ざるか。

ソメヰヨシノザクラは上に述べし如く朝鮮桜なり、此桜は三好先生の云はるゝ通り、壮美にして通俗によろし、之を以て一度江戸の一角に現れし以来大なる流行を以て現今は全国に普く、朝鮮や北米にも輸出せらる。方今日本の御花見は皆此染井吉野桜の壮美を賞するに御花見にして昔とは一変せり。

古来大和武士と肝胆相照せし山桜の如きは気品高く優美の点に於て日本趣味なる之に勝る他の桜なきを以て、自ら其植ゑらるゝ処も染井吉野の如きものとは大に異れリ、之を以て彼の如く通俗ならず、されば南朝の歴史を反映する吉野山の如き処には染井吉野の如きは少しも適当せず。

予済州島に於ける染井吉野桜の天生地の調査を志して二十年漸く其志を達せり、如此く何が何処にあるらしいと気付いても、直に調査に行くものとは定てゐるものではない。然し今より之を見れば松村先生在世中に之を解決して置けばよかつたと考へて居る。

※原文の旧字体は新字体に改めました。仮名遣いは原文のままです。