竹中要「サクラの研究(第1報) ソメイヨシノの起源」『植物学雑誌』第75巻(第889号)
1962.7.25: 278-287頁
サクラの研究(第1報)
ソメイヨシノの起源*
竹中要**
Yo TAKENAKA** Studies on the Genus Prunus, I.
The Origin of Prunus yedoensis
1962年3月26日受付
* Contribution from the National Institute of Genetics, Japan. No. 420.
** 国立遺伝学研究所(National Institute of Genetics, Misima, Japan)
278-280頁:
ソメイヨシノの沿革
ソメイヨシノ(染井吉野)は江戸は染井の植木師某が吉野桜と名づけて,江戸時代の終りか明治の初年に売り出したものであると伝えられている.すなわち吉野桜の名が古名で,染井吉野の名は後のものである.染井吉野の名は明治33年(1900)1月25日発行の「日本図(ママ)芸雑誌」に藤野寄名1)氏が「上野公園桜花の種類」と題して同公園の桜の調査報告を載せたときに用いたものである.同氏は博物局天産課員であって田中芳男男爵の指導と命令によって,明治17年から同19年にかけて上野公園の桜の調査をしたと思われるが,その報告において上野公園の桜を次の3種に区別している.
甲種 彼岸桜,江戸彼岸(吾妻彼岸),変種枝垂桜(糸桜)
乙種 山桜 山桜と各種の里桜
丙種 染井吉野
この文中「染井吉野発見の動機は故田中芳男先生の指導に基くをもつて,真にこれを見初めしは故田中芳男先生の慧眼卓見に属すと謂ふべし」と述べている.ここにおいて「吉野桜」といつ(ママ)て売りだされたといわれる桜が染井吉野の名を得たのである.吉野山にある桜は山桜に属するものであり,吉野桜の名はあたらない.三好学博士および小泉源一博士も調査したが,吉野山には染井吉野の古木と思われるものはない*.筆者もまたつぶさに,昨春(昭和36年4月)吉野山の桜を調査したが,染井吉野の原産地と推定すべきなんらの証拠をも見いださなかった.
さて明治33年(1900)に染井吉野が発表され,翌34年(1901)には東大教授松村任三博士2)によって,Prunus yedoensis Matsumuraの学名が与えられ,学界に登場することとなった.
このように学名もつけられ,急に世間が注意するようになって,このサクラの履歴について染井の花戸をたずねたが,これを売り出した花屋もなく,古老たちも皆死んでしまっていて,これを知る方法がなかったという.当時世間の風説では伊豆の大島がこのサクラの原産地であるといわれていた.幾人かの人が大島に行ったが,これを見つけることはできなかった.三好博士および牧野博士**は染井吉野について非常に関心をもっていたから,両博士とも大島にサクラをたずねて旅したが発見できなかった.筆者もまた昭和33年(1958),昭和35年(1960)および本年(1962)の3回大島に渡つ(ママ)て調査したが,染井吉野の原産地と推定されるべきものを少しも見いださなかった.
* 小泉博士は初め大和国森本坊にある白滝桜をエイシュウザクラと考えたが,後に矢張白滝桜として新種にした.三好博士はそれより古くこれを勝手桜としている.
** 牧野博士からは直接きいた.
ソメイヨシノの研究史
小泉源一博士3)は大正元年(1912)ソメイヨシノ/をさがして大島の植物を調査したが,ソメイヨシノを発見できず,自生しないことを発表した.その際同博士はソメイヨシノがエゾヤマザクラとヒガソザクラとの雑種ではないかと述べている.つづいて同博士は大正2年「ソメイヨシノザクラの自生地」4)と題して“先頃児玉親輔君*の(ママ)青森市のフォーリー(U. Faurie**)氏の腊葉室に研究に行かれた(ママ)序に,予がため(ママ)にフォーリー氏の所蔵するサクラ全部を借用し携へ帰え(ママ)りて示さる.その(ママ)内にある済州島産の1種のサクラは同島の600m(ママ)の高地に採りしものにして,その性状はよくソメイヨシノザクラ(Prunus yedoensis Matsumura)に一致す.元来この(ママ)サクラは日本にもっとも(ママ)普通に栽培せらるれども,未其自生地不明なりしが,今回計らずも分明するに到りしは児玉・(ママ)フォーリー両君の賜なり.深く謹謝す[註:竹中は引用にあたって句読点を補い,表記,仮名遣いを改めている]”と述べた.
* 児玉親輔.第1回目の旧制山口高等学校教授,シダ類の研究者.
** フオーリー;フラソス人,宣教師,植物採集家,台湾の山中で採集中,ヒルが呼吸器に入り出血して死亡したという.
これより少し前,大正元年(1912)5月5日,ドイツのケーネ(E. Koehne)5)氏はPrunus
yedoensis Matumura var. nudiflora Koehneが済州島に自生することを報告し,この変種が済州島に自生することは学術上重要で興味があると述べた.このケ一ネの用いた材料は明治41年(1908)4月14日済州島在住のフラソス人宣教師タケー(Taquet
***)が同島の山中で採集したものである.この原品のひとつはフォーリーの標本のなかにあり.(ママ)現在京都大学植物学教室に保存されている.このP. yedoensis var.
nudifloraはエイシュウザクラ****と呼ぶものである.この2つの事柄があって以来済州島がソメイヨシノの原産地ではないかと思われるようになった.
*** タケー;フラソス人宣教師で長く済州島におった.大戦まで朝鮮大邸で牧師をしていたのは同一人であると思う.
**** エイシュウザクラ エイシュウというのは済州の古名である.この標本が,フォーリーの青森在住時代のものと同一であり,小泉博士が観察して,その性状はソメイヨシノザクラに一致すると述べたものであるならば,筆者の同標本鑑定の結果とは一致しない.この標品は非常にいたんでいるが,花托 (萼筒部)の形がヤマザクラ様楔形でソメイヨシノの瓶子形とは異なる.
しかし,まもなく大正5年(1916)に日本で樹木の研究をしたアメリカのE.H. Wilson6)が
The Cherries of Japanという書物を発刊したが,それに,ソメイヨシノはその形態的特徴からエドヒガソとオオシマザクラの雑種であるように思えると発表した.すなわち“To me P. yedoensis Matsumura strongly suggests a hybrid between P. subhirbella var. aseendens Wilson and the wild form of P. Lannesiana Wilson. It has many
characters of the latter and in its venation, pubescens and shape of the cupula
resembles the former.”そして彼は,済州島に自生するP. yedoensis var.
nudiflora Koehneについては,不確実のように思われると書いている.
他方朝鮮の植物の研究者であった中井猛之進博士7)は大正5年(1916)に“済州島漢拏山の森林に生じ稀品なり.分布,日本に広く栽培すれどその産地を知らず”と記載している.中井博士はソメイヨシノを済州島旅行中採集したのか,あるいは誰かから標品を得たのか不明であるが,同書中には日本で現在栽培されているものと同一と思われる品の図版が載っている.またサクラについて学識の深かった三好学博士8)はたびたびソメイヨシノの原産地がつまびらかでないことを述べているが,昭和6年版の最新植物学の下巻に“染井吉野は明治の初東京染井の花戸において栽培せるものにして,俗に呼でヨシノザクラといえども大和の吉野山の桜は山桜なればこれと同一ならざる言をまたず.染井吉野は伊豆の大島の原産なるべしとの説あれどしかも予の検せる同地の桜は皆山桜にして,染井吉野の原種と認むべきものあるを見ず.さきにこの桜が朝鮮附近の済州島に自生せるを報ぜるが,しかも培養せる染井吉野の起原に関しては未詳ならず”と記載している.このようにWilson博士も三好博士もともに済州島産の染井吉野類似物を,日本に栽培せるものとは別のように疑っている.
さて小泉博士は,その根本を解決するために,昭和7年(1932)4月下旬済州島にソメイヨシノを求めて旅行した.その結果は雑誌「植物分類地理」9)に“予本年4月20日済州島に渡り,済州島営林署長田中勇氏,同森林主事岩田久治氏,および片倉角治氏の応援をえ(ママ)て同島の探求に従事し,4月24日同島/漢拏山の南山腹600mの山地に真のソメイヨシノザクラ*およ(ママ)びエイシュウザクラの天生せるを発見したり.ここにおいて(ママ)永年学界の疑問とされしソメイヨシノザクラの原産地も済州島なることは確定したるも,予未だ南鮮の山地に此自然分布あるや否や(ママ)を詳にせず.されば現今ソメイヨシノザクラの原産地は済州島なり”と発表した.そしてこのサクラが日本に渡来したことについては,吉野権現は船乗りの崇拝するところであるから,同権現の愛好するサクラを持参して献上したものと推定した.そして江戸の染井の植木師が吉野もうでで,その美しいのを見て,それをもち帰って普及したと推考した.
* タケーの採集した品と,小泉博士の採集した品とは異なっている.
筆者はソメイヨシノの日本渡来説には非常に疑問をもっていた.そこで昭和8年4月京都大学に小泉博士を訪ね,済州島に原産する状態について聞いた.それを要約すれば次の通りである.
(1) 夕景に漢拏山南側(西帰浦側)山腹海抜600m位の所に1本のソメイヨシノを発見した.時間の関係上他をじゆうぶん調査することができなかった.
(2) ソメイヨシノ,エイシュウザクラおよびヒガンザクラの3本が並立していた.
(3) 牧場のようやく終ろうとする山腹で,谷間に点々と森林の切り残された所がある.そのひとつにこのソメイヨシノは存在した.
(4) ソメイヨシノは根本から枝分れして,あまり老大木ではなかった.
いろいろと生態学的の疑問もあるので,筆者は昭和8年4月29日に京城を出発し,小泉博士の追調査を行なった.小泉博士の応援をした田中勇氏および岩田久治氏両人の案内で,ソメイヨシノを中心にしてサクラの調査をした.時期すでにおそく小泉博士の発見したソメイヨシノの花は終っていたが,わずかに遅れ咲きを一枝得た.並立しているエイシュウザクラとヒガンザクラも落花してしまっていた.
附近の植生を見ると山麓一帯は牧場となり,牛馬の放牧のため海抜700mくらいまで森林は伐採されているが,小さな谷間は放牧に不適当のため,あちこちに樹林を残していた.結論として,そのソメイヨシノは天然生であるといえる.800m以上の地帯はサクラの盛りであったが,ついにソメイヨシノを発見することはできなかった.
筆者10)は昭和9年(1934)に雑誌「史蹟名勝天然記念物」に“染井吉野桜の原産地に就て”と題しこの済州島旅行を中心にしてソメイヨシノのことを述べたが,日本で栽培しているものとの比較について次のように報告した.“図版に示してあるのは現在栽培ぜられているソメイヨシノと済州島産ソメイヨシノとであるが,相異点を述べれば,前者は葉において古くなっても裏面葉脈に沿って多少の毛を残すが,後者にはほとん(ママ)ど見られないし,花梗は後者が稍々短(ママ)く,前者は萼に毛を有するにかかわらず後者は着けない”.しかし接木によって増殖されている現在の栽培品でも,生育地によって生態的にこれ位の差は生じうるかもしれないと考えたから,これくらいの差異をもって済州島産のものが別種であると言いきることはできなかった.
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[ソメイヨシノの研究]
(3) 原産地の推定
すでに述べたように筆者はソメイヨシノが済州島から渡来したということに疑問をもっている.第一にはその数が現在あまりにも少なく,かりに100年以上まえに多少多くあったと仮定しても船夫が花期外に機会的に採集して持参したとすれば,それがソメイヨシノである確率はほとんどないといえよう.またもし花期に見ておいて,冬期に持参するとか,または秋季に芽つぎ,あるいは春先きに接木をするため立ち寄って採集し,接木ををして吉野権現に献上したと仮定する場合には,船夫がいかに信心深くとも容易のわざでないと考えられるから,仮定が無理であろう.次にまた吉野山で,その開花の美しいのを見た江戸の植木師が花期外に往復1ケ月以上にもわたる旅をして,吉野山にソメイヨシノの接穂を求めたと仮定することは,これまた大変な難題である.この点小泉博士は種子を持参すれば同一のものが,あるいはほぼ同様のものが生ずると無意識に考えていたのではなかろうか.筆者はすでにうえに実生の分離で示したように,ソメイヨシノによく似たものは,めったにできないことからも,済州島渡来説はとらない.
三好博士やWilson(1916)が済州島渡来に疑問をもっていたわけはつまびらかではないが,卓見であるといわなければならぬ.次に筆者は済州島産のソメイヨシノを観察して,上述のように栽培品と少し異なることを発表しているが,これこそ,今日からみるときは異起原のものであるという証拠となるであろう.いいかえればエドヒガンとエイシュウザクラとの雑種ではないかと考えられるのである.この原木の種子を韓国の友人に求め,採集者を済州島に送ってもらったが,すでに終戦後伐採されてしまって,その姿を見ることができなかったのは真に残念である.しかしエイシュウザクラの種子は少量入手できたから,これが発芽生育してくれるならば,十数年の後には済州島ソメイヨシノに近いものを再現できるのではないかと考えている.
1) 上野寄名,日本園芸雑誌 92: 1 (1900).
2) 松村任三,東京植物学雑誌 15: 100 (1901).
3) 小泉源一,同 26: 145 (1912).
4) 小泉源一,同 27: 395 (1913).
5) Koehne, E., Repertorium Specierum Novarum Regni Vegetabilis 10: 507
(1912).
6) Wilson, E.H., The Cherries of Japan p. 16 (1916).
7) 中井猛之進,朝鮮森林植物第5輯 34[24], 8(1916).
8) 三好学,最新植物学講義 下巻 419 (1920).
9) 小泉源一,植物分類地理 1: 177 (1932).
10) 竹中要,史蹟名勝天然記念物 11: 1 (1934).