佐藤俊樹『桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅―』岩波新書 新赤版936 
 岩波書店 2005年2月 224頁


123-131頁:


日本らしさと桜らしさ


桜ナショナリズムの語りにも、さらに大きな変化がおこる。

これまでみてきたように、明治期には桜はまだ日本の花の一つにすぎなかった。例えば、伊藤銀月の『日本風景新論』では、日本は「桜花国」と同じくらい「松国」でもあり、さらに程度は劣るが「梅国」でもあるとされている。松の景色の多くが人工的なものであることはよく知られているが、銀月にとっては、循環的因果が想定される植物はすべて国民性の発現なのである。『曙山園藝』でも「桜」の章は「梅」と「松」の次、三番目に登場する。大町桂月も梅をたくさん見ている。

これも明治期の桜語りの大きな特徴で、桜は梅との対比の上で日本らしい花とされている。梅とのちがい/で桜らしさが語られ、それが日本らしさと結びつけられる。その桜らしさ=日本らしさが「日本」のすべてにはなれないところに、この語りの面白さがある。桜好きが日本のナショナリティの最も重要な部分に対応しているとしても、梅好きである以上、桜らしさではない梅らしさに対応する部分を必ずもってしまうからだ。それは別の日本らしさの可能性を自らうかびあがらせる。

だからこそ経験科学とはつながる。日本らしさと桜らしさを頭から(ア・プリオリ)同じものだとはいえない。それは、桜好きの程度や具体的な性質といった事実で証明しなければならない仮説であった。その分、一人一人の日本人もすべて均しく桜好きとはいえない。そこには自ずから量や性格のちがいがある。「なぜ重ねられるのか」を科学した銀月だけでなく、署山や桂月も「好き」という経験の水準から離れることはできなかった。梅好きという東アジアの言説圏の内部にあることで、ナショナリズムの科学は科学らしさをたもっていたのである。

列島の外でも、桜は日本を代表する花木の一つであった。朝鮮半島にはもともとヤマザクラやエドヒガンが自生しているが、植民地化の後も桜を特に重視したわけではない。竹国友康『ある日韓歴史の旅』によれば、半島南部の軍港都市鎮海に日本海軍が当初植えたのは杉、松、ポプラ、アカシア、桜などであった。明治四五年(一九一二)の神武天皇祭の記念植樹には桐、/松、ポプラが選ばれている。これは靖国神社境内での位置づけとも一致する(→Ⅱ章2)。

桜が大々的に植えられるようになるのは大正期で、その主力はソメイヨシノであった。これ以降、ソウルをはじめ、朝鮮半島各地に桜が植えられ、名所ができていく。列島の内でも外でも同じ春が出現しつつあったのである。


「桜の国土」の生成

ソメイヨシノの拡大自体を「国家の浸透」などで説明しがたいことは、すでにのべた。例えば、飯田の司令部の桜にも何かの由来があったのだろうが、古島少年には伝わっていない。何かの記憶であるとしても、それは短い間で消えている。けれども、一度植えられたソメイヨシノが咲く場所と咲く時期ゆえに、「一つの国家」「一つの時間」「一つの学校システム」に後から結びついたということなら、十分考えられる。

その点でいえば、たしかにソメイヨシノは日本の国家を貫く<日本>の存在を強烈に印象づける花であった。咲き姿がどの樹でも同じ、そしてどこでも同じというだけではない。ソメイヨシノは根づきがよく、ヤマザクラやエドヒガンが育ちにくい場所でも育った。咲き方が「同じ」だけでなく、咲くことで別々の土地を「同じ」にしていった。/

あのペタッとした単調な花色も、景色を同じに見せる点では鮮烈な郊果をもつ。時代はやや後にあるが、住田正一「桜で想うこと」(『文藝春秋特別版 桜 二〇〇三年三月臨時増刊号』)は、学徒動員の幹部候補生として見たソウル朝鮮神宮の桜をこう回想している。

……神宮への坂道の階段を息を切らして昇った。そのとき、我々を待ち受けてくれたのは、満開の桜であった。桜の下で休息をとりながら、成蹊の桜を想った。異境の桜も、日本の桜と全く変るところはなかった。

住田が想った成蹊の桜は、大正一三年、成蹊学園が吉祥寺に移転した時から植えられたソメイヨシノの並木である。

均質化された土地に咲く均質な桜。桜はすでにナショナリズムの表象になっていた。だからこそ、そのただ一つの桜らしさはただ一つの日本らしさをいっそう強く実感させる。<日本>を発見する語りの浸透にそれが加わることによって、「同じ桜が咲く国土」という感覚をより深いものにしていったのではなかろうか。

そして、そのことがさらに桜をただ一つの日本らしい花にもしていった。多様な桜らしさが/失われ、桜らしさがただ一つに集約されるようになれば、桜と他の花木との隔(へだ)たりが大きく感じられるようになる。その分、桜も松も梅も日本の花木だ、とはいいにくくなる。他方で、一つの集約された桜らしさは、日本らしさを一つの何かに集約する語りとは結びつきやすくなる。ただ一つの桜らしさと、ただ一つの日本らしさと、桜だけが日本を代表するただ一つの花木だという感覚は、お互いにお互いをささえあう。そう考えれば、ソメイヨシノの拡大と桜語りの変化はつながってくる。

大正期をはさんで、「梅との対比で桜は日本らしい」という事実にからめた理論が、「日本人だから桜を特別に愛するのだ」という、科学がかった規範へと読み換えられていく。その舞台裏には、こうした桜景色の転換も関わっていたのではないか。


「桜の国土」の拡張

その変貌は雑誌『櫻』の上でも跡づけることができる。

『櫻』は桜博士とうたわれた三好學や井上清などが中心となり、大正七年(一九一八)に創刊された。戦前の桜を知る上で、今なお最も重要な文献である。そのためか、この雑誌そのものの性格が議論されることは少ないが、『櫻』はもちろん中立的な学術雑誌などではない。古典の/詩歌や江戸の風俗、吉野の小学生の作文から、政治、園芸、植物分類学まで、幅広い文章が載っているが、それらをつらぬくのは「桜は日本の国花」という標語である。

そこでは、桜は日本を象徴する花という以上の、もっと実体的につながりが見出されていた。その点で、明治期の桜語りよりもさらに一歩踏み込んでいる。例えば三好學は、日本産の桜は世代を重ねるごとに自然に美しくなっていくという、「桜の向上性論」を唱えた(「科学上より見たる日本の桜」『櫻』三号など)。桜は種から育てると遺伝子がまじるので多様化していくが(→Ⅰ章1)、そのなかに日本らしさと美しさを見ようとしたのである。伊藤銀月が人間の働きかけの産物であるとしたものを、三好は日本の自然からの贈物とする。その飛躍ぶりは英文を載せる国際性や手堅い実証にそぐわない気もするが、それは現在の目による偏見なのだろう。

三好の語りにおいては、科学とナショナリズムはまだ一つのものであった。「桜の向上性論」はあくまで一つの仮説であり、前田曙山と同じく、科学とナショナリズムの幸福な結婚が未来に夢見られていた。だからこそ、素直にナショナリズムを肯定できる。大正期の『櫻』には、そんな無邪気な明るさがただよう。

大正の終わりから昭和にかけて、この「桜の国土」という観念はさらに膨張していく。

空間的には、国境線の内部だけでなく、その外部にも日本らしい桜を発見して、「ここも日//本だ」とする語りが出てくる。例えば大正一一年の石川安次郎「国の表徴としての桜」(『櫻』五号)は、中国に渡った桜を紹介している。天津では李のようになったが青島では美しく咲いたとのべて、「日本の桜があの通り咲く土地である以上は……わが国と特別な関係を持つ運命をもっているのではないか」と書く。青島の桜はドイツ人が植えたものだが、多くの日本人が新たな土地に桜を移植して、そこに「日本」を確認しようとした。

それは次第に桜の実態から離れていく。ソメイヨシノにしても、植えられたのは朝鮮半島だけではない。アメリカの首都ワシントンの河畔にも咲いていた。これは明治四五年に東京市が贈ったもので、日米友好の証として今も有名だが、誰も「ワシントンも日本の領土になる縁がある」とはいわなかった。アジアでだけ、日本の桜が咲くからここは日本だ、と唱えたのである。石川安次郎もワシントンの桜には何もふれていない。

その一方で日中戦争がはじまると中国の占領地域へ、第二次大戦中は東南アジアへも、日本から桜がさかんに移植された。気候条件を無視した強引な植え方も多かったらしい。寒さに強いオオヤマザクラや暑さに強いカンヒザクラに頼ることもできたはずだが、列島内と同じ桜をひたすら送りつづけた。ただ一つの桜らしさの呪縛なのだろうか。昭和一七年の「国花進駐」(『櫻』二二号)には、そんな桜殺しを何とか押しとどめようとする井上清の悲痛な声が載って/いる。

その現実と観念のすきまを埋めるように、桜に似た現地の桜の花を「~桜」と命名する語りも現われる。最終号になった翌年の『櫻』二三号には「爪哇桜」(ジャワ)、「新嘉坡桜(旧名)=昭和桜」(シンガポール)、「蒙古桜」(モンゴル)といった名前がならんでいる。帝国と同じように、「桜」も薄く広くなりながら膨張していった。田中英光が山西省鎮風塔で見た幻のように(田中英光「山西省の桜」)、その多くはもはや言葉の上だけの桜だったが、それだけに「日本」への憧憬と渇望をいっそう掻きたてるものでもあったようだ。

サイタ サイタ サクラガ サイタ
内地の花 日本の花だと 結核の姉がいう
見たこともないものをことばで 覚える
大陸の「さくら」は教科書のなかに 咲いている(進藤涼子「大陸の桜」、昭和六〇年)